ロック史上ここまで何をするか予想できない人はいないだろう。世界最高の変人は、やはり世界最高の天才だ。
69年の"スペイス・オディティ"で台等し始め、
、70年代に入ると当時としては画期的な化粧や衣装でグラム・ロック・ブームを
巻き起こす。72年にはキャラクター”ジギー・スターダスト
”を創造し、アルバム"ジギー・スターダスト"が大ヒット、世界的なスターとなる。
その後も、”ダイアモンド・ドッグ”や”シン・ホワイト・デューク(痩せこけた青白い伯爵)”などのキャラクター
を生み出す。
70年代中盤以降はソウルやファンクに転向、その後はベルリンに移住し、電子音楽を導入した作品を発表。 時代とともに歩き、時には一歩先を行くボウイは常にファンを驚かせた。
80年代にはディスコ・ブームに乗った"レッツ・ダンス"が大ヒットし 、俳優として様々な映画に挑戦。 日本では映画"戦場のメリー・クリスマス"でも話題となった。
89年にティン・マシーンを率いて活動した後、93年から再びソロ活動を開始。
21世紀に入っても"ヒーザン"や"リアリティ"など個性的な作品を発表。
デヴィッド・ボウイは、デビューから40年以上たっても変わり続けている。
デヴィッド・ボウイ、本名デヴィッド・ロバート・ジョーンズは、1947年1月9日生まれ、 ロンドン出身。 家は貧しい労働者階級で、家庭環境も冷え切っていた。 デヴィッド・ボウイは幼い頃から音楽が大好きだった。そして音楽への情熱と、エルヴィス・プレスリーに対する 憧れからギターを手にし、スターになることを志す。
10代半ばからバンドを組みデビューもするが、当時バンドブームだったイギリスにおいて、 なんの特徴もないバンドだったため、売れることはなかった。 1966年の春、バンドを解散したデヴィッド・ボウイは、デラム・レーベルとソロ契約を結ぶ。 そして1967年6月、ファースト・アルバム"デヴィッド・ボウイ"を出すが不発に終わってしまう。
1969年7月、映画"2001年宇宙の旅"に影響を受けた"スペイス・オディティ"が、 テレビ番組に使われたこともあって、全英チャート5位となるヒットを記録した。 そして、再デビュー作"デヴィッド・ボウイ(スペイス・オディティ)"が出され、 まずまず成功し、ポップ・スターへの階段を上がっていく。
ライヴでデヴィッド・ボウイは、中性的で派手な衣装を身にまとって演奏し話題となる。 そうしてこれらが、 グラム・ロックと言われるようになる。
ライヴ活動を続けながら、サードアルバム"世界を売った男"をレコーディングし、 1971年4月にリリースする。ただこの頃のボウイは、前年8月に父ヘイウッドが亡くなり、 兄テリーは精神病院に入院、またマネージャーの交代などもあって精神的に不安定な時期 だった。
ちなみにニルヴァーナのカート・コバーンは自分の今(93年頃)の 気持ちとそっくりだということで"世界を売った男"をカバーしている。
1971年6月 RCAと契約したデヴィッド・ボウイは71年12月に"ハンキー・ドリー"をリリースした。 このアルバムはボウイの人間性が強く出ている初期の傑作。
そしてデヴィッド・ボウイは、70年代ロック史を代表するボウイ最高傑作"ジギー・スターダスト" を製作し、1972年6月にリリース。このアルバムは大ヒットし、ボウイはミック・ジャガーやジミー・ペイジ、ピート・ダウンゼントと ともに最も若者に影響力のあるアーティストとなる。
このアルバムは、地球と人類の救済の物語をクールなロックンロールに乗せて歌い上げた傑作。
時代の波に乗ったデヴィッド・ボウイは、翌1973年4月"アラジン・セイン"をリリース。 全米ツアーの合間を縫ってリリースされたこのアルバムは、全英5周連続1位となり、大ヒットを記録した。
その後、日本にも来日し、帰国後、全英ツアーをおこなってファンを熱狂させるが、 "ジギー・スターダスト"という強烈なイメージに苦しみ、 突然デヴィッド・ボウイはライヴ活動の中止を宣言。
そしてデヴィッド・ボウイは若い頃に影響を受けた60年代のロック・バンドたちの
曲をカヴァーした"ピンナップス"をリリース。その後、ジョージ・オーウェルの近未来SF小説"1984"を題材に、
第2のキャラクター"ダイヤモンド・ドッグ"を創造、1974年5月、初めての完全
プロデュースによるアルバム"ダイヤモンドの犬"を発表した。
ボウイのファンには、後にスターとなり、自殺することになるシド・ヴィシャスやイアン・カーティスがいる。
"アラジン・セイン"以降、3作品連続での全英1位を獲得しているデヴィッド・ボウイは、6月から 1年ぶりの全米ツアーに出る。エンターテイナーとしてデヴィッド・ボウイは見事なパフォーマンス を魅せる。 アルバムは全米チャートで初のトップ5入りを記録する。
しかし、今度は"ダイヤモンド・ドッグ"というイメージのプレッシャーから ドラッグに手を染め、ツアーも中止となる。
ソウル/ファンク・ミュージックへの転換を深めたデヴィッド・ボウイは、フィラデルフィア・ソウルの本拠地、 シグマ・サウンド・スタジオで"ヤング・アメリカンズ"をレコーディングする。
ジョン・レノンと共演がしたシングル"フェイム"は1975年夏、初の全米チャート1位を記録。 アメリカでもトップ・スターとなったデヴィッド・ボウイは同時期、映画"地球に落ちてきた男"に初主演。
デヴィッド・ボウイは新たに"シン・ホワイト・デューク(痩せこけた青白い伯爵)"という キャラクターを創造し、70年代のソウル/ファンク・ミュージック・アルバム "ステイション・トゥ・ステイション"を1976年1月に発表する。 デヴィッド・ボウイが作り上げた"シン・ホワイト・ドューク"は、自分自身がモデルと言われている。
1977年1月、まだ東西に分断されていたベルリンの壁の近くにあったスタジオでデヴィッド・ボウイは、 そこで"ロウ"を製作。このアルバムはボウイの代表作の一つとなり、 ファンからも絶賛される。そして、同じ製作環境で77年10月"ヒーローズ" をレコーディング。
そして、1979年5月、ベルリン3部作の3作目"ロジャー"をリリース。 このアルバム後、ベルリンを離れることになる。
ボウイが次に向かったのは、ニューウェイヴが台等しつつあった ニューヨーク。そこで製作した"スケアリー・モンスターズ"は、NYニュー・ウェーヴに影響をうけた ものとなった。
80年代に入ってからは、ブロードウェイの舞台で"エレファントマン"を演じたり、"戦場のメリークリスマス"に 出演したりと、サブ・ジャンルで活躍。そして、クイーンとの 共演したシングル"アンダー・プレッシャー"が1981年11月にリリース。ただデヴィッド・ボウイは、 この頃音楽に対する情熱が冷めてきており、これからも音楽を続けるかわからない状態となっていた。
RCAからEMIに移籍し、1983年4月 "レッツ・ダンス"をリリース。先行シングルの"レッツ・ダンス"が初の英米両国で 1位を記録。このアルバムは本来のボウイ的な作品ではなかったが、ディスコ・ブームの影響もあり、 デヴィッド・ボウイ史上最大のセールスを記録した。
1984年9月トゥナイト"をリリース。シングル"ブルー・ジーン"が世界中でヒットした。9曲中5曲がカヴァー曲 であり、アルバムのセールスは不振に終わった。
翌年にはミック・ジャガーとシングル"ダンシング・イン・ザ・ストリート"で共演した。
しかし、1985年1月に兄テリーが鉄道自殺してしまう。
1987年4月"ネヴァー・レット・ミー・ダウン"をリリース。
だが、このアルバムもセールスが不振に終わる。
そんなデヴィッド・ボウイの新たな行動はデヴィッド・ボウイ自身もいちメンバー というハード・ロック・バンド、"ティン・マシーン"だった。
アルバム"ティン・マシーン"はヒットするが。1991年9月に発表された"ティン・マシーンⅡ"は、どこかちぐはぐな活動が影を落としたような 内容のアルバムとなり、バンドは自然消滅してしまう。
だが、簡単には終わらないのがデヴィッド・ボウイ。 イアンとの結婚生活を機に生まれた6年ぶりの ソロ作"ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ" (1993年4月)からボウイ本来の力が発揮されていく。
プロデューサーのナイル・ロジャースと組んだこのアルバムには、自殺したテリーを歌った "ジャンプ・ゼイ・セイ"、時代と同化したデジタル ・ジャズ・ファンクでなど注目すべき曲を収録。
1995年9月、アルバム"アウトサイド"をリリース。ブライアン・イーノのプロデュースに よるアルバムとなり、ボウイの意欲が出ている。
同時にデヴィッド・ボウイは、ナイン・インチ・ネイルズ と全米を廻る"アウトサイド・ツアー"を行ってステージで共演した。 面白いことに、ナイン・インチ・ネイルズのフロント・マンであるトレント・レズナーは 、デヴィッド・ボウイに影響を受けていたバンド”ジョイ・ディヴィジョン”から 影響を受けたアーティストである。
1997年2月"アースリング"をリリース。このアルバムで、クラヴ・ミュージックへ変化し 、またもファンを驚かせた。
そして50歳の誕生日を迎えた97年1月には、ルー・リード、ソニック・ユース、ビリー・コーガンらが 参加しての記念コンサートをニューヨークで開いた。1998年にはインターネット事業で"ボウイネット" 開始。
1999年9月デヴィッド・ボウイはアルバム"アワーズ"をリリース。このアルバムは内省的な作品となった。 その後、自身のレーベルISOを設立して発表し、2002年6月"ヒーザン"をリリース。このアルバムは 70年代のデヴィッド・ボウイ黄金時代をともに築いたプロデューサー、トニー・ヴィスコンティを起用した。
そしてわずか1年3か月後の2003年9月"リアリティ"リアリティをリリース。ジャケットはかなり キュートで、内容は若きボウイを 思い出させるようなパワフルな作品となった。